春に再訪を誓った地、南米大陸。しかしこんなにもすぐに再訪することになろうとはあの時は思いもしなかった。
2018年8月、私は再び標高4000m超のボリビア、エル・アルト空港に降り立った。こちらの季節は冬、しかし気温は思ったよりは随分快適であった。比較対象が零下20度のウイグルなのでなんとも言えないが。乗合タクシーで擂り鉢状の都市を大回りしながら降下し、既に懐かしさすら感じるバスターミナルで切符売りの声に耳を傾ける。実はこの先の行程は考えてはあるものの未定。ラパスから南に向かうか、それとも西か。不意に若い男が「アリカ!」と叫んだ。私の腹は決まった
昼にラパス[La Paz]に着いてからひたすら西へアンデスを降り、国境を超えて海岸部の街アリカ[Arica]へと辿り着いたのは深夜であった。それでも翌朝にはしっかり早起きしてカメラを携え線路端に立つ。
ここアリカはペルーと接する国境の街でもあり、1日2往復、旧式のディーゼルカーを改造した「国際列車」が走っているという情報だった。暫く待っていると、草臥れた軌道をたった1両の気動車が車体を大きく揺らしながらやってきた。天気も冴えないので、スナップ気味に一枚。どうもこの季節はアリカは毎日朝夕に曇り、昼は晴れるといった具合らしい。列車は朝夕にしか走らないから、この上ない撮り鉄泣かせである。
アリカは別の季節に再訪することにした。深夜バスに乗り込み、まずはアリカからカラマ[Calama]へ。カラマから乗り継いだバスは、朝陽の方角へアンデスの山嶺を登ってゆく。荒野の向こうに見えた集落が、ボリビアとの国境の街オジャグエ[Ollague]だった。
駅の操車掛に貨物列車の時間を尋ね、線路伝いに歩いて良い雰囲気の撮影スポットを探す。転がっている岩に腰掛け、日本を出る直前に適当に掴んで鞄に放り込んだ文庫本を取り出してみたら、そのタイトルは「レヴィ=ストロース入門」だった。これも何かの縁と思い、難解な文章を紐解く。そうこうしているうちに、3両の機関車の咆哮が山の向こうから響いてきた。標高3660m、空には雲ひとつない。やはり撮り鉄はこうでなければ。
チリ側で列車を撮影したら、今度はボリビアから国境を越えてやってくる列車を狙うために移動する。国境警察に事情を話すと、なんと「検問所の向こう側」での撮影が叶った。一切の障害物のない、見事な直線区間!昼下がり、光線も申し分ない国境線を最徐行で渡ってきたのは重連の日立製機関車。ボリビアのパーイチという渾名も伊達ではない、その由緒正しき日本型の顔つきは我々ジャパニーズ・トリテツのDNAを強く刺激する!
もう暫くオジャグエに滞在しても良かったのだが、予想以上に値の張る高山帯の宿と食事に財布が心許無くなってきた。この集落には銀行もATMもない。もう満足いく写真は撮れている、と自分を納得させ、翌朝のバスで国境を超えボリビアのウユニへと抜けた。
ウユニ塩湖で有名な地ではあるが、塩湖のシーズンでもないため街は静かだった。ウユニ駅から線路伝いに「機関車の墓場」として有名な観光地へ歩いて行ってみる。駅前の食堂でカルボナーラとビールを平らげ、オルロ行きの列車の切符を調達した。
夜行列車"EXPRESO DEL SUR"、オルロまで定時ならば7時間の旅である。2等座席車で運賃1000円。メーターゲージの車内はやや窮屈である。深夜零時、日本のそれと同じ音色のホイッスルを響かせて、列車は南米の闇夜に滑り出した。
目を覚ますと、列車はなお北上中だった。朝陽を眩しく反射するウル・ウル湖を過ぎれば、前回のボリビア訪問時に長居したオルロの街である。
大通りを俯瞰できるお気に入りの跨線橋。954号機関車が露天商や自動車の隙間を縫ってゆっくりと進む。同じ日立製機関車でも、初期型の900番台は1000番台と少し表情が異なる。ほんの小さな差異ではあるが、比べるとどことなく垢抜けない雰囲気である。
この後は昨春に撮り逃したボリビアの「本命」を撮影しようと思っていたのだが、前回に引き続き今回もまた運休中だった。事前に国鉄公式に運転日の確認までしたのだが、困ったものだ。
意気消沈、暫くやることが無くなってしまった。ということで思い切って南米大陸の逆岸へと飛んだ。
深夜のブエノスアイレスに到着。翌朝は早起きし、カメラとともに街に繰り出した。ここの地下鉄は日本の中古車両を多く使っていることで有名で、つい先日も丸ノ内線の車両が「里帰り」して話題となった。この日も地下鉄B線の半分近い運用が旧丸ノ内線車両で賄われていた。黄色の塗装に変更されてはいるものの、椅子や吊革のみならず「乗務員室」の表記まで残っており、不思議な気分である。なにより鼻腔を擽ぐる機械油の薫りが、幼い頃に乗った電車を思い出させるのであった。
ネット上では治安が最悪と評されることも多い町だが、実際に訪れてみれば朗らかで親切な人の多い素晴らしい土地だった。ボリビアに比べて食事の選択肢が多かったのも良い癒し。フライトの時間に焦りながら平らげたパスタと黒ビールは忘れ得ぬ味であった。
再び南米大陸の西側に戻る。サンチアゴに辿り着いたのは8月19日の夜中。寝惚け眼で空港の荷物レーンの前に立っていたが、一向に自分の預け荷物が出てこない。ロスバゲである。撮影機材は肌身離さず飛行機に持ち込んでたので、行方不明になったのは衣類や洗面具くらいだったのは不幸中の幸い。捜索の手配を済ませ、ぐったりしながらホテルへ。着替えもタオルも無いとフロントでボヤいたら、真っ白なバスタオルを貸してくれた。親切が身に染みる。
着替えを数日諦める覚悟さえできれば、大きな荷物鞄が無くなったことは身軽だった。翌朝は日の出前にバスに乗り込み、200km南のタルカ[Talca]を訪れた。
タルカの駅の近くで昼飯を済ませたら、街の外れを目指して8kmほどのんびりと歩く。跨線橋から遠くに眺め遣るはアンデスの山並み。この時期は山颪が厳しい。暫くして、2両編成のレールバスがやってきた。狙い通りの順光。着替えは無いが、撮り鉄の調子は完全回復である。
この路線は、タルカとコンスティトゥシオン[Constitucion]とを結ぶ軽便鉄道。並行してバスが何本も走っているが、産業遺産としての価値も鑑みて今なお毎日2往復が運転されている。
撮影後、バスでコンスティトゥシオンに移動し投宿。さぁ久々に満足いく写真も撮れたことだし、今宵は一人宴会だと街に繰り出してみたが、食堂も商店もほとんど開いていなくて驚いた。夜といっても8時過ぎ。誤算も誤算、夕飯が食べられるかすら怪しくなったが、なんと一軒だけ中華食堂のネオンサインが輝いていた。私は狂喜乱舞した。入ってみると意外に高級な店で、注文できたのは一番安い麺とビールだけであったが、その東洋的な味わいに私はこの上なく元気をもらった。
翌日はマウレ川に架かる橋梁を訪れた。この撮影地へのアプローチは写っている鉄道橋を徒歩で渡るというもの。地元民はひょいひょいと渡っていくのだが、いざ自分の番になると相当怖かった。
またタルカへと戻り、朝の列車を撮影する。低空に雲が垂れ込めていたので、好ましい防風林の木立と合わせて広めの画角で撮影。これにてチリのレールバス撮影の〆とした。町に戻り、ゆっくり昼飯を済ませてから南に向かう高速バスに乗り込んだ。
今回の旅、そして人生での最南到達地点であるコンセプシオン[Concepcion]は時折小雨が降っていた。撮り鉄は諦め、郊外電車で港町へ。この海の遠く西には日本がある。ロスバゲしていた荷物はここでようやく手許に帰ってきた。
いよいよ帰国の飛行機のためにサンチアゴに戻る日になった。コンセプシオンの隣町チヤン[Chillan]から特急電車を使うことにした。南米の長距離バスに慣れてしまっていたので、超距離移動に鉄道を使うのが随分と久しぶりに感じた。何はともあれ、晴れて持ち物も全て揃い、私はサンチアゴ空港から飛行機の乗り込んだ。8月26日、成田空港到着。またしても私の荷物は、いつまで待ってもレーンに現れなかった。