これほどまでに海外を好き勝手に旅をしていると、時には親孝行をしてみようという奇想天外な発想が降りてくるものである。紆余曲折とした経緯は省くが、とにもかくにも私は母親を連れてポーランドは首都ワルシャワの空港に到着した。
飛行機の中では僅かばかり残っていた親孝行への殊勝な思考も、空港線の車窓に現れる鉄道風景を前に雲散霧消してしまった。ワルシャワの中央駅に到着した私は、さっそく母に「3時間後にもう一度この駅で集合で」とだけ伝えて意気揚々とトラムの撮影地に向かったのであった。かくして、初日より我が親不孝は遺憾無く発揮されてしまった。
ワルシャワに到着した日のうちに特急電車でクラクフまで南下し、翌日朝一番の乗合自動車で山脈地帯を超えスロバキアのポプラドに到着した。ポーランドで一番美しいとされるクラクフの街ではあるが、夜到着の朝出発では観光の暇もない。母君は早くも私の行程に呆れかえっていた。
さて、私とて無意味に急いでスロバキアまで南下した訳ではない。ポプラド到着翌日の5月1日は、ここを起点に走るタトラ電鉄の旧型車両が一日限定で復活する日だったのだ。保存運転されているEMU89型は、自動車や路面電車で有名なタトラ社が製造したナローゲージ電車。カーブと勾配の連続する山岳鉄道を華麗に走り抜けるその姿はまったく老いを感じさせない。
驚いたのは、現地で偶然知り合いの撮り鉄(日本人)と合流できたことであった。好意に甘え、ポプラドでの撮影は彼の運転する車にお世話になった。
そういえば我が母君はどうしていたのかと言うと、峠の茶店で優雅にお紅茶をお嗜まれ遊ばれ、麓でショッピングに興じられていた。どうやらこの人は放っておいても大丈夫なようだと私は学んだ。日本では折しも天皇陛下即位の儀式が行われていたが、その中継映像はスロバキアからでは視聴できず、母君はいたく残念がっていた。
翌日は日の出前の鈍行列車に乗り、西に移動。国鉄線の撮影地に向かった。ゴーグルの愛称でお馴染みの754型機関車が、珍しく整った編成の客車を牽引する。昨日のタトラ電鉄撮影で行動を共にした知人も車でここに乗り付け、談笑しながら撮影を楽しんだ。
母君はといえば、先に宿のある街に一人で向かわされ、あまつさえ宿へのチェックインという大役まで押し付けられていた。
スロバキアのジリナに投宿したのち、チェコのオストラバへと抜けた。この街ではタトラ社製の路面電車T3型が少数ながら現役である。生憎の空模様ではあったが、天気をあまり気にせずに撮影を愉しめるのはトラムの特権である。
ここまでで既に我が親不孝ぶりは遺憾無く発揮されているが、それでも夕飯くらいは母子で仲睦まじく食べることにしていた。宿の女将に紹介してもらったレストランで頂いたチェコワインは実に美味しかった。
オストラバに一泊したのち、5月3日、今度はまたポーランドに戻る列車に乗り込んだ。母上はいよいよ国と通貨に混乱してきたようである。カトヴィツェ、ヴロツワフで列車を乗り換え、ポーランド西部の街ポズナンに到着した。
さて、宿はここポズナンに予約してあるが、実は私は別に行ってみたい場所があった。宿へのチェックインを例の如く母に任せ、私はローカル線に再び乗り込み南西60kmの位置にあるウォルシュティンに向かった。
ウォルシュティンは軽便鉄道などを除けばポーランドはもとより欧州で唯一、毎日蒸気機関車の列車を走らせている地域である。この日はその蒸気機関車のイベントの日で、国外の他の機関庫からも蒸気機関車を呼び寄せてパレードなどを行うハレの日であった。
私が到着したのは日没後であったので、パレードは終わってしまっているが、機関庫内では大役を果たした機関車の整備点検が行われていた。他の撮影者の姿も少なく、作業員から機関庫に宿泊する許可をもらった私は、明け方まで撮影に勤しんだのであった。
親子で旅に出ておいて二人の宿泊場所が違うというのもなかなか変な話である。
機関庫での夜通しの撮影を終え、私はポズナンに戻りようやく母と再合流した。再会を祝って母子でフードコートのアジア料理屋に入って和食を食べた。ポーランドまで来ておいて、熟くやることが変わっていると思う。
ポズナンにはトラムがある。翌日からも結局、母は観光、息子は撮影という塩梅であった。黄緑色の塗装のデュワグカーは、乗降扉のない方向から撮影すると巨大な芋虫のようである。
ポズナンからはトチェフに転戦した。いよいよ我が寛大なる母君も少々退屈してきたようである。曰く、「どこの街も見所は教会と旧市街ね」とのこと。確かに分からぬでもない。しかし次に続く言葉には驚いた。曰く、「明日はあなたの撮影地とやらに行ってみるわ」と。
そういった事情で、私と母君は四方を見回しても人家が数件しか確認できない平野まで、郊外の駅から1時間ほど歩いたのであった。我ながら老婆を、いや妙齢の女性をここまで歩かせるものだとも思う。いつ母君の堪忍袋の緒が大断裂して哀れ欧州の農地で一家離散となるかと心配したが、母の心はこの平原にも負けず広かったようだ。
スロバキアの機関車がやってきた。山吹色と紺色の塗装が美しい。
雲の動きに気を揉みながら線路端で待つ。やがて、遠くから3軸台車の唸りが聞こえてきた。鼻筋の通った表情も凛々しいET22型機関車である。白熱灯の丸目がいかにもポーランドの機関車といった風情である。少々太陽高度が高いが、背景の雲と合わせて夏らしい絵になったと思えば悪くない。
撮影地は雲に覆われてしまったので、また来た道を歩いて駅まで戻った。町食堂で腹を満たし、次に行く場所を思案する。ちょうどよい時間の列車があったので、北上して港町グダンスクに向かうことにした。
グダンスクにはトラムがあった。これを愉しまない手はないと、私は母親を放置して撮影地を探し出した。午前中の撮影に同伴させた労をねぎらうことなど綺麗さっぱり頭から消えてしまっていた。
トチェフ近郊での撮影を終え、我々はワルシャワに戻った。どうにも天気が冴えないので、今こそ親孝行のチャンスとばかりに土産物購入の鞄持ちをしたり、ショパンのコンサートに同伴したりした。帰国まで2日、残された予定ははワルシャワ空港から飛行機で日本に帰るだけである。
心ゆくまで親孝行を楽しみ満足した私は、帰国前々日の深夜23時、ふと思い立ちワルシャワを発ちクラクフに向かう夜行バスのチケットを2枚予約した。
2週間の旅のせめて最後の数日をワルシャワで心穏やかに過ごすという母君の細やかな夢は、真っ暗闇の中をひたすら南下する4列席バスに打ち砕かれた。日が昇る頃、我々二人はS字カーブの撮影地に立っていたのである。
天気予報とにらめっこして急に訪問を決めた撮影地であったが、ロケーションは悪くない。但し流石はワルシャワとクラクフを結ぶ最重要路線、やってくる機関車はみな新型であった。やはり私は丸目の旧型機関車が撮りたい。
クラクフの街を北から南に通り抜け、午前とは別の撮影地にやってきた。もはや母君は悟りの表情で撮影に同伴している。念の為、車窓に流れる街並みを指差して「母さん、これがポーランドで最も美しいとされるクラクフの街並みだよ」と解説しておいた。
陽炎の向こうから、丸目のEP08型機関車がインターシティ編成を従えて姿を現した。帰国前日の粘り勝ち。これにて我がポーランド遠征は大満足のうちに幕を閉じたのであった。