三度目のインドは、私を手荒く歓迎してくれた。
デリーに到着した翌朝、寝ぼけ眼のまま国鉄駅に足を運んだ私が目にしたのは、予約してあった急行列車の発車案内欄に掲げられた"Cancelled"の9文字。すなわち運休。駅員に掛け合ってみるも、同じ時間帯の他の列車はすべて満席。デリーから鉄道で北上するという当初の計画は、早々と打ち砕かれた。
駅前に屯しているオートリキシャの運転手に私は叫んだ。「バス・ターミナルへ!」果たして一時間後、エアコン付きA寝台車の代わりに隙間風吹き荒れるオンボロバスに揺られ、私は朝靄のインドの幹線道路を北に向かっていた。
3本か4本かのバスを乗り継いで辿り着いたのは、デリーから北に300kmほど離れたナンガルという街。この街から少し離れたところにはバクラ・ダムという巨大ダムがあり、そこへの通勤輸送のために専用鉄道が敷かれている。ダム周辺は私のような外国人には立ち入り禁止であるので、市街地側の駅や車庫を訪問した。活躍している3両の機関車はなんと1953年に製造されたGE 44トン型。進駐軍が戦後日本に持ち込んだDD12形の兄弟分である。
乗るなと言われると乗りたくなるのが人の性…かどうかは知らないが、現場鉄道員と地域住民のおかげで一駅区間だけながら乗車が許された。この辺りの寛容さは、さすがインドといったところなのかもしれない。機関車同様、客車もかなりの骨董品である。
ナンガルからは、また電車やバスを乗り継いでパランプルへ移動した。インドの中でもかなり北方、ヒマラヤ山脈の裾の辺りである。
ここを走る山岳軽便鉄道を撮影したかったのだが、なんと訪問の少し前に鉄道沿線で土砂崩れがあり、運転本数が大幅削減されていた。さらに、最も期待していた撮影地の辺りは事故現場に近かったため終日運休。仕方なく、私は早めに南下するための準備をした。
国鉄の夜行列車に乗るために、パキスタンとの国境地帯パタンコートへと移動する。本来なら山岳軽便鉄道に乗ってパタンコートまで行けたはずが、土砂崩れで路線が寸断されているのでここでもバス移動に変更。なかなか思うようにいかない行程である。もちろん、道中様々な人と接しながらゆくバスの旅も悪いものではない。
パタンコートからは寝台特急列車で、一気にデリーの南、アグラへとジャンプした。タージマハールで有名な地である。
ところで私がパタンコートを離れたまさに数日後、インドとパキスタンが国境地帯で紛争状態に陥ったというニュースが流れてきた。紛争はパタンコートからだいぶ離れた場所ではあったそうだが、それでもやはり肝が冷えることに変わりはない。
一端の建築学生として、タージマハールはしっかり見学してきた。駅前でカレーを平らげ、列車でもう少し南下する。飛び乗った2等自由席車両は、荷物棚まで満員であった。アグラから南に50km、ドホルプールで下車し投宿する。
ドホルプールからは、西に向かって軌間762mmの軽便鉄道が伸びている。一日に数本しか列車が走らない閑散線区だが、途中のBari駅は駅舎も趣があり、町外れには打ち棄てられた寺院もあるなど、なかなかに愉しい路線であった。やっと思い通りの撮影ができる、と張り切る。
ここまでのハードスケジュールに草臥れて駅でうたた寝をしていると、心配した駅長さんが駅長室へと招いてくださった。記念に彼を撮影。青いテーブルクロスと赤い冊子、南国らしい原色の使い方が趣深い。
ドホルプールの軽便鉄道を撮影した翌日、朝のバスで南に下りグワリオールに到着した。ここグワリオールにも、やはり西に向かう軽便鉄道がある。そしてこの路線こそ、今回のインド訪問の中でも最大の目玉であった。
グワリオールに1泊したのち、翌朝の軽便鉄道の下り始発列車に乗り込む。数時間ののちに下車し、予め目星をつけておいた撮影地でカメラを構えた。
やがて、グワリオール行きの上り始発列車が猛然と駆けてきた。扉から溢れ、屋根まで鈴なりの乗客たち。機関車のエンジンルームの上に座る人もいる。そう、このグワリオール軽便鉄道こそ、インド最後の「屋根乗り」ナローゲージなのであった。
それから数日の間、私はグワリオールに滞在し、この愛すべき屋根乗りナローの撮影を心ゆくまで楽しんだ。自分自身でも屋根に乗り、灼ける土埃の匂いに包まれながらの旅を楽しんだ。生涯忘れえぬ経験である。この時に撮影した写真は、帰国後の写真展「萍逢鉄路 眼差しのインド」においても重要な位置を占めることになった。
グワリオールからは、さらに南のナーグプルに転戦。ここでもやはり被写体は狭軌の軽便鉄道。
田舎の村で撮影の合間に路地を散策していると、地元の若者集団と仲良くなった。最初は警戒したもののすぐに打ち解け、山一つ越えたところにある彼らの実家にお邪魔し、お昼ご飯をご馳走になった。私は鞄に入っていた「家内安全」「火の用心」のステッカーを、お礼に彼らの家の玄関に進呈してきた。
後日談であるが、私がナーグプルを訪問した半年後くらいに彼らから久しぶりに連絡があった。いわく、「君が見にきた軽便鉄道は、今日で運行停止になったよ」とのこと。輸送量の小さい狭軌鉄道に代わって、インド標準の広軌鉄道へ改造するための工事が始まったようだった。私はギリギリで狭軌鉄道に間に合ったわけだ。
軽便鉄道行脚の旅はまだまだ続く。ナーグプルから西に進路を取り、ついで訪れたのはアムラバティの外れにある狭軌鉄道だった。ここは国鉄大国インドでは珍しい私有鉄道である。列車は1日1往復のみ。
いざ乗車してみると、カメラを出しただけで怒る駅員もいれば私を運転席に招き入れる運転士もいて、国鉄線以上に混沌とした雰囲気であった。特に乗務員たちは日本から訪れた私をたいそう面白がり、営業列車を踏切で停車させたまま道路脇のチャイ屋で一杯やるように勧めたり、大幅遅延にも関わらず途中駅で列車を長時間停車させて駅前でパフェを奢ってくれたりした。乗客たちが怒り出さないかとも思ったが、見る限りはみな気にする様子もない。不思議な、そして愉しい国である。
旅も終盤戦、最後は西インドの軽便鉄道群を訪問した。この辺りの路線で活躍する車両はみな赤色ベースの塗装である。
距離の短い路線がいくつか散らばって存在しているが、中でもヴァドダラーに近いChoranda駅は格別の雰囲気であった。土に埋もれかけた線路、留め置かれた客車、屋根組の露出した駅舎。私はこの駅で、なにをするでもなく丸一日を過ごしたのであった。
Choranda駅の窓口で切符を買う老婆。Karjan駅のホームで宿題をする少女。どちらも、絵画のような…という陳腐な例えしかできないほど、美しい光景だった。
ヴァドダラーからは、夜行列車でデリーに戻った。賑やかな駅前広場に立ち、そういえば最初は列車が運休になってバスターミナルまで慌てて移動したのだった…などとひとり苦笑した。途中では行程も崩れ、実は体調を崩しもしていたのだが、何はともあれ無事に3週間のインドの旅を終えることができたと安堵した。多くの人と出会い語らいだ、実に充実した3週間だった。
体力的にはハードな旅であったのもまた間違いない。良い写真に恵まれたし、暫くインドはいいかな、と帰国した時には確かに思った。しかし今、この記事を書きながら、私は再びインドの土を踏みたくて堪らないのである。