2/24 Thu
サンクトペテルブルク 23時55分発、モスクワ 翌朝7時55分着。
ロシア国鉄の誇る、伝統と栄光の001列車”赤い矢”号、1号車1番寝台。
そこで、私は2022年2月24日の朝を迎えた。
列車はすでにモスクワ市内に入っているようで、団地と冬枯れの樹木と曇り空とが、彩度の低い、代わり映えのしない車窓を上映していた。
それでも、今日は”赤い矢”号で迎える特別な朝だ。見回りに来た車掌に、眠気覚ましのコーヒーを注文し、日本の家族に連絡をしようとスマートフォンを開いた。ロシア渡航中、閲覧制限のため使えないLINEの代わりに活用していたWeChatのアプリには、私の起床の30分ほど前に、母からのメッセージが届いていた。
2/24 6:58
ウクライナ侵攻が始まりました
コーヒーの味はしなかった。スマートフォンでニュースとSNSを読み漁っている間に、”赤い矢”号は終着のモスクワ・レニングラツキー駅に滑り込んでいた。
頭端式のプラットホームを、キャリーバッグを引いて歩く。この時、一枚だけ撮影した写真は、ピントが合っていなかった。
経済制裁を受けてクレジットカードが使えなくなる可能性を考慮して、地下鉄駅のATMで現金を1万ルーブル引き出した。日本円換算で14,965円だった。
旅の残りの日数は2週間。このまま行程を進めるべきか? 一刻も早くロシアを脱出するべきか? 当面旅を続ける場合、どの段階で帰還を決断するか?
遅くとも、このクレジットカードが使えるうちにロシアを出よう。私は、そんな曖昧な結論を出した。
2/24 8:47
(母)電車は通常通り出るんだね
(私)今ちょうどモスクワを出発
ロシア国内にいる限り、全く混乱を感じません
モスクワ・クルスカヤ駅、8:48発。私の乗り込んだ715列車の行き先は、ウクライナ国境まで100kmもないクルスクだった。私は流石に終点まで乗らず、途中のオリョールで降りる予定だ。そのオリョールですら、ウクライナ国境までは160kmしかない。だいたい、東京から静岡市までくらいだ。ウクライナ国境から遠ざかるならまだしも、近付いていくなんて、振り返ってみれば正気の沙汰ではない。
それでも言い訳するならば……モスクワの市内は、まるで過去の録画を再生しているみたいに普段通りだった。戦争は、あまりに静かに始まった。号外を配る新聞売りも、プロパガンダをがなり立てるスクリーンも、プラカードを掲げる人も買いだめに走る人もいない。私もまたその中の一人として、事前に定めた行程に従ってオリョールに向かった。
オリョールは晴れていた。一瞬現れる晴れ間を除けば、青空を見たのは、ロシアに来て初めてだったかもしれない。なにもこんな日に晴れなくてもとも思ったが、撮影に集中することで、陰鬱な気分を少しは晴らすことができた。
投宿したホテルは12階建てで、安い部屋を予約したにも関わらず、私は最上階に案内された。窓を開ければ、通りを行く路面電車が見えた。160km先のウクライナなど見える訳もないのだが、それでも眼前に広がるあまりに平和な夕景を見る限りでは、今自分のいる国が"戦時下"に突入したとはとても信じられなかった。
2/25 Fri
6時起床。
街の店はどこも閉まっているので、唯一開いているマクドナルドに入った。客は私一人。ロシア語の拙い私のために、店員の青年は中国語のメニューを持ってきてくれた。青年の親切さにも、さして大きくもない街の店にその準備があることにも驚かされた。コーヒーとエッグマフィンの味は、日本のそれと全く同じように思えた。高校時代に立ち寄った、西武新宿駅前のマクドナルドを思い出す。
明るくなってきた街を、カメラを携え歩く。本日も快晴なり。
路面電車の停留所脇の売店を覗くと、"ウクライナ"の文字が目に留まった。その新聞を25ルブールを支払い買い求めて、キリル文字をGoogle翻訳に記入してみる。
"Украина пошла на ядерный шантаж"
(ウクライナは核による脅迫に踏み切った)
ウクライナへの敵意を煽る虚偽のニュースは、既に日常の景色に溶け込んでいた。ぎらぎらと異様な輝きを放つでもなく、なにげない新聞のいち記事として。
胃が、きりきりと痛みだした。寿司とピザを売るよくわからない軽食屋に入って、味噌汁を啜った。
陽が沈む頃、満員の路線バスに揺られて国鉄オリョール駅に戻った。今夜の寝床もまた夜行列車である。降車駅のトゥベリまでは、7時間半。とりあえず、ウクライナ国境から離れられる ー 次の滞在地はウクライナ国境から500kmはある。思った以上に安堵している自分が居ることに驚きつつ、私は眠りに落ちた。
2/26 Sat
4時40分、夜行列車はトゥベリに到着した。駅前のバスターミナル ー バラックのような建屋があるだけの"そこ"からミニバスに乗り3時間。降り立ったのはオスタシュコフという小さな町だった。
オスタシュコフからボロゴエに繋がる路線では、週末限定で蒸気機関車牽引のレトロ列車が走っている。牽引機はソ連時代に大量生産された貨物用機関車・L型で、客車は最新式だが、その塗装は昔ながらの緑色。遠目に見れば、雰囲気はなかなかに悪くない。
そもそも、このロシア渡航の主目的は蒸気機関車撮影にあった。
2月24日の開戦以前には、サンクトペテルブルクから北に200kmほど行ったところにあるソルタヴァラという町に1週間ほど籠り、やはり毎日蒸気機関車を追いかけていた。ここオスタシュコフの後にも、もう一箇所、ヤロスラブリという都市の近くを走っている蒸気機関車を狙う予定である。
今日、ロシアで定期的に蒸気機関車が見られる場所は、これらのソルタヴァラ、オスタシュコフ、ヤロスラブリの3箇所だけである。最も早期に走りだしたオスタシュコフの蒸気機関車ですら、2018年の運行開始だから、かなり新しい事例だ。それでも、ロシアの鉄道でこのような近代歴史遺産を守る動きが見られることは、素直に嬉しいと思う。
歴史に正対するということは、時間や空間を隔たった他者へ、考えを巡らせるということだ。過去の暮らしに思いを寄せられる人がいるとしたら、その人は国境線の向こうにも同じことができるだろう。
しかし願えど、状況は好転しない。国際送金網からロシアが遮断されるという予測が、現実味を帯びてきた。
クレジットカードが止まること自体も怖いが、手持ちは多少はある。浪費しなければ、旅の終わりまで現金が尽きるということはあるまい。それよりも怖いのは、経済的な混乱に伴う社会不安や治安の悪化だ。いまは自身の身の安全を講じなければならない。ここからは ー 既に出遅れているとしても"ここから"は、最悪の中の最悪を想定して行動しなければならない。
私は帰国を決意した。
2/26 21:02
28日の夜、あるいは3/1出国便へ変更し
早めに帰国することにしようかと思います。
詳しくは明朝
2/27 Sun
ロシアを旅して2週間弱。だいぶ遠くまで来たような気もしていたが、なんてことはない。バスと快速列車とを乗り継いで、たった6時間でモスクワまで帰ることができてしまった。それでも、重い荷物と気持ちは、予想以上に身体に重くのしかかってきていた。
核戦争に備えてソ連の地下鉄は深くに掘られた……なんていう話はよく聞くが、最早ちっとも面白くない。今頃、ウクライナの地下鉄は避難民で溢れかえっているのかもしれないと思うと、一層やりきれない。
キエフスキー駅併設の宿に辿り着いた時には、心身ともに疲労困憊だった。キエフスキー駅とはモスクワ西側のターミナル駅の呼び名であるが、今日聞くにはあまりにも白々しい。ウクライナの首都の名前を冠した駅が、モスクワにある - 仮にも連邦の二大国として深く結びついていたはずなのに、この国はどこでボタンを掛け違えてしまったのだろうか?
そうこうしている間にも、状況は少しづつ悪化していく。この頃から、日本の友人との連絡に使っていたTwitterの動作が不安定になった。冒頭で述べた通り、LINEはそもそも使えていない。
2/28 Mon
帰国前日ではあるが、いちど空港に赴き、PCR検査を受けた。結果は陰性。これが万が一にも陽性だとしたら日本には帰ることができなくなっていたので、ほっと胸を撫で下ろす。夜行列車の4人部屋など、周りの乗客は往々にしてマスクを外しているので、やや不安ではあったのだ。
これといってすることもないので、キエフスキー駅前のショッピングモールで土産を仕入れた。有り余っているルーブルを使い切るためにご馳走を食べようかとも思ったが、結局はスーパーで買ったお惣菜と瓶ビールに落ち着いた。
3/1 Tue
そして帰国の日。恐れていたことは、起こった。
街を散歩していた私は、うっかりいつもの癖で、行き交う通勤電車にカメラを向けてしまったのだ。何枚かシャッターを切って、カメラを下ろした時にはもう遅かった。
このように努めて明るく書いているが、このメッセージを送っている時点で、職質開始からは30分以上が経過している。外気温に反して、シャツは汗に濡れていた。
それでも、この時の私はまだ楽観的だった。ロシアを離脱するための飛行機の出発時刻は16時40分。これに乗るためには、14時に出発する空港連絡列車に間に合えばいいのだ。
(母)大丈夫? 終わった?
(私)大丈夫よ。まだ途中だけど、時間には余裕があります。
しかし職質は終わらなかった。
私はモスクワ・レニングラーツキー駅の構内にある鉄道公安詰所に"任意同行"を求められた。無論、断るという選択肢は存在しなかっただろう。
鉄道公安の詰所 ー 鉄格子の扉の奥で、私はひたすら待たされた。曰く、貴方のロシア語は拙いので、英露翻訳のスタッフを呼んでいる、と。
時計の針は、12時を回った。
時計の針は、13時をも回った。
飛行機には間に合わないだろう。私は、覚悟をし始めた。
幸い携帯電話は自由に使えたので、家族に連絡を取り、改めて現状を説明する。今は一分一秒も惜しい。日本の家族のパソコンから、搭乗予定の飛行機のオンライン・チェックインだけでも済ませてもらった。
しかし ー 多くの在露外国人が出国を急ぎ、ロシア人ですら国外逃亡を企てている今日、この飛行機を逃したら"次"はあるのだろうか? 今日(3月1日)の飛行機の空席ですら、やっとの思いで掴み取ったのだ。それも、エコノミークラスは満席だったので、大枚を叩いてビジネスクラスで。
13時5分、状況は動いた。
「翻訳官」様が到着したのだ。そこからは早かった。
話を聞くに、どうやら私は、鉄道爆弾テロの容疑者として捕らえられたようだった。
私は進んで自身の荷物をひっくり返し、輪ゴムのひとつまで机の上に並べて見せた。むろんそこに爆弾などない。取調室で全裸にならん勢いでズボンのベルトを外した。パスポート、カメラの撮影データ、スマホのEメール受信ボックス、彼らの見たいものはなんでも見せた。旅行目的は? これまで行った国は? 仕事は? 彼らの全ての質問に、私は食い気味に答えた。
やがて彼らは頷き、私に荷物をまとめるように促した。
翻訳官は、最後の質問だ、と咳払いした。「好きな国は?」
「ロシアです!」私は間髪入れずに答えた。この瞬間、私はこの国をはじめて理解したような気分になった。
3/1 13:21
解放されました
荷物を回収に
モスクワ・キエフスキーを発った空港連絡列車は、残雪のモスクワを西に走っていく。
もっとロシアを旅したかった。ちゃんとロシアから出国できそうでよかった。ロシアが好きだった。こんな国はもう御免だ。いくつもの感情が、灰色の団地とともに流れていく。
さらばモスクワ。さらばロシア。私のパスポートのシングル・ビザは、その役目を終えた。
epilogue?
最後に、開戦前のロシアの話を少しだけしよう。美しい蒸気機関車や、愉快なナローゲージの話だ。