ベンガル湾鉄路(2017/02)

灼熱のアジアが恋しくなった。地図を眺めると、日本の西側には中国、台湾、ベトナム、タイ、ミャンマーと訪問済みの東・東南アジア諸国が並んでいる。次はもう一つ西へ、旅人の聖地・インドへ行ってみようかと思い立った。ついに南アジアへの進出である。

ちょうどミャンマーにもまだ撮り残していた列車があったので、この訪問と合わせて3週間のアジア旅の計画を練り上げた。
いきなりインドへ飛び込むのも少し不安であったが、タイとミャンマーを経由して行くのならば身体も慣れるだろうと狙っていた。事実この「慣らし運転」は功を奏したようで、初のあインドも体調を崩すこともなく無事に帰ってこられた。

2月12日、飛行機の乗り換え地点であるバンコクで1泊。現地に着いてから知ったのだが、この日は長旅を終えたイースタン・オリエンタル・エクスプレスが到着する日でもあった。優雅なドーム天井の駅には深緑に輝く車体がよく似合う。

翌朝、バンコク駅にて出発を待つ旧型客車列車。朝のバンコクの寝惚けたような暑さ、気怠い熱気に東南アジアに戻ってきたことを実感した。

空港に戻り、飛行機でヤンゴンへ。以前に来た時と同じ安宿に投宿し、半年ぶりのミャンマー鉄路撮影を始めた。

2月14日、ヤンゴン環状線にて。かつて厳冬の東日本で活躍していた気動車も、今は灼熱のミャンマーで窓も扉も開けたままの第二の人生を送っている。駅のホームはパラソルが立ち並び即席の商店街に。

この日の夜に夜行列車に乗り、翌朝には思い出の町・ピンマナーに降り立った。通り雨が止むのを駅で待ち、散策に出る。

半年前の訪問時に仲良くなった子供達と再会。弟君たちが元気に走り回り水溜りで遊ぶ傍、お姉さん二人は学校で勉強した英語を披露してくれた。みな元気なようで一安心…などと、まるで離れて住む叔父になったような気分である。

急行列車の運用からは撤退した旧国鉄キハ52も、単行のローカル運用として現役であった。ピンマナー駅の傍に佇む5013号のその姿は、日本の地方線と言っても違和感を感じさせないような佇まいである。

その日の運用を終え車庫へと戻る5013号。日本時代を思い起こさせるツートンカラーの車体が夕陽に照らされて一層美しく映える。

再び夜行列車に乗り込み、ミャンマー第二の都市マンダレーへ。ミャンマー国内をここまで北上するのも初めてであったが、今回はさらに奥地を目指す計画である。 マンダレーで一泊し、翌朝は乗る予定の列車を逃してしまったのでバスでモンユワの街へ。

ちょうどバスを途中下車することができたので、モンユワの外れにあるThanboddhay Pagodaに立ち寄った。その尖塔が並んだ外観もさることながら、この寺院は内観が実に見事。壁に並んでいる白いものは全て仏像である。58万体という総数は圧倒的という他にない。

この日はモンユワに泊まり、翌日早朝に出る川船でさらに北上する。

出発から暫くして、狭い船室の椅子を抜け出して甲板に上がった。靄のかかった空に朝陽が昇る。船は相変わらず単調に北を目指している。時折、川沿いの町から小舟が出て来て、この船と乗客を交換してまた町へと戻って行く。結局、船を降りるカレーワの町までは11時間かかった。

さらにカレーワからは軽トラック改造の乗合タクシーで最終目的地カレーミョへ。改造といっても日本の中古トラックにホロとベンチを付けただけである。しかも途中で故障した他のトラックを紐で繋げて走り出したものだから、慣れない私から見れば実におっかない。それでも窮屈で遅い川船に比べれば、風の吹き抜ける荷台はいくぶん快適であった。道端で咲いていたひまわりを持って撮影に応じてくれた父子。

夕方カレーミョに到着し、駅にてお目当の車両と対面する。駅近くのホテルに投宿し、撮影の準備を整えた。
翌19日はバイクタクシーを手配して撮影に向かったのだが、運転手との意思疎通が不十分であり撮影はうまくいかず。20日には大奮発して乗用車をチャーターし、リベンジマッチと相成った。

これこそ今回のミャンマー旅の目的、片ボギーの3軸気動車D1Bである。以前にマダウ線で撮影したカーヤター・シリーズの最終形態とも言うべき車両であり、一時はミャンマー各地で見られたカーヤターの最後の残党でもある。この日はカレーミョからハンタワーディまでの運用についており、チャーターした車で先回りしたのちに道路併用橋で迎え撃った。列車のすぐ後ろにバイクが迫っているのがなんとも可笑しい。

ハンタワーディの駅にて機回し中D1B。やっと空が青く見えるようになった。草臥れた最果て列車、ここがミャンマーであることを穏やかに主張する白の駅名標、そして涼しげな樹。いかにも私好みのアングルである。この後は運転士のご厚意により走行中の列車の運転席に入らせていただいた。

車で再びカレーミョの町に戻り、夕方の飛行機でヤンゴンへ。往路では夜行列車、バス、船、軽トラにバイタクとあらゆる手段を駆使してへろへろになりながら辿り着いたヤンゴン〜カレーミョの移動は、復路は一瞬で到着してしまった。

ヤンゴン駅東側のお気に入りの跨線橋で、環状線の客車列車を迎え撃つ。日本の中古気動車が大量に導入された煽りで、客車による普通列車は随分とその数を減らしているようだった。ただ幸いなことに気動車とは運用が明確に分かれているようだったので、毎日決まった時間にやってくる客車列車を撮影するのはさして難しくはなかった。

普通客レをインカーブにて。広告車の混じらない6両編成の普通列車は編成美も申し分ない。

2月23日、この日は空路でコルカタへ。飛行機は多少遅れたものの、ついに東南アジアを抜け、南アジアへと降り立った。空港からホテルに向かうタクシーの窓を開け、ヤンゴンとはまた違う空気の場所に来たな、と実感する。

翌日、朝のコルカタの賑わいの中を散歩する。コルカタの魅力は何と言っても路面電車である。インド唯一にしてアジア最古の路面電車も、バスやオート・リキシャーが道路を占領するコルカタでは邪魔者扱いなのか、年々その運転規模を縮小しているらしい。まだ車通りの少ないメインストリート、野良犬を横目におんぼろのトラムがゆっくりと走る。

コルカタの街を歩いていると、まるでインド映画のワンシーンのような光景に何度も出くわす。道路端の水道で体を洗う人々を、トラックの荷台に登って撮影。

夕刻、駅は家路を急ぐ人々で賑わい、通勤電車が次々に発着する。しかし列車のドアが閉まらないせいで、走行中の列車への飛び乗り飛び降りは日常茶飯事だ。この写真は一年後、初作品展「萍逢鉄路」の代表カットに使うことになった。

そしてこの日、私にとっては実に珍しい旅の同行者が東京から飛行機を乗り継いで到着し、以降旅の終わりまで行動を共にした。彼は鉄道ファンではないので、長距離移動の時を除き日中のほとんどは別行動であったのだが、好き勝手に行動したい性である私にはこれが実に助かった。もし朝から晩までべったりとくっ付いての旅であれば、私は2日3日のうちに音を上げていただろう。
とにもかくにも、この日はコルカタを歩き回り、翌日の飛行機でインド東海岸のチェンナイへ。

空港から街の中心へ向かう鉄道に乗る際、駅にて国電を撮影。インドの鉄道は線路幅が広いぶん、車体も横に伸びて扁平な雰囲気である。

チェンナイからは夜行列車で、世界遺産にも登録されているニルギリ山岳鉄道へ。最初は1日1本だけの蒸気列車に乗るつもりであったが満席であり、代わりにバスで先回りし山の上の撮影地で待ち構えた。このバスがまた曲がりくねった対向車だらけの峠道を駆け抜けるもので、いつ谷底に真っ逆さまになるかと肝を冷やしたものだ。

急勾配区間だけあって、線路の間には歯車の軌道が敷かれている。蒸気機関車の側にも歯車がついていて、これを噛み合わせてゆっくりと山を登って行くという仕掛けだ。機関車は麓の側に連結され、常にいわゆる「顔」の部分が客車と向き合うような編成となるため、撮影するには悩ましい。おまけにインドの気温の高さと、オイルバーニング(石炭ではなく石油で走る)機関車という特殊な条件も相まって、煙は殆ど出ないのである。

クーノアの街にて。二人の少女の後ろに写っているのは、今回のインド旅に同行されたF氏。「えらいところに連れてこられてしまった」といった所だろうか。

クリケットに興じていた少年たちに声をかけ、記念撮影。かつてのイギリス統治の影響か、今でもインドでは多くの青年たちが空き地や公園でクリケットに励んでいる。山の斜面に広がる街並みも実に見事である。

ニルギリ山岳鉄道の修理庫にお邪魔した。さすが多宗教国家インドだけあり、祭壇はキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教の併用である。

整備を受けるX型蒸気機関車。ラック式鉄道用の1000mmゲージ機関車である。インドではナローゲージに分類されるが、日本の軌間とは殆ど変わらない。4軸の動輪に加え歯車装置も備えた出立ちは重量感において一般のタンク機の比ではない。

翌日にはニルギリ山岳鉄道を後にし、山を降りてコインバトールの町に投宿。翌日は長距離鈍行列車でインド南東の都市マドゥライまで移動した。初のインドにしてなかなかのハードスケジュールである。

インドにも駅弁は存在する。ビリヤニというインド式炊き込みご飯と茹で卵だけのシンプルな弁当を売り歩く男性。他にもサモサという揚げ物やチャイなど、駅や車内では様々な軽食が売られており重宝した。

さて、わざわざインド北東部のコルカタから南東部のマドゥライまで遥々南下して来たのは、単にインド縦断をしてみたかったからという訳ではない。マドゥライからさらに鈍行列車で東に数時間行った場所に、今回の旅の最終目的地があった。

マドゥライ駅を朝に発つ鈍行56723列車は、Pamban駅到着前に長い鉄橋を渡る。大陸部と離島を繋ぐこのPamban橋の開通は1914年。「インドで最も危険な鉄路のひとつ」とも言われているが、実際にこの鉄橋を徐行しながら通過する列車に乗るとその言葉にも頷ける。

Pamban駅で下車し、いざ鉄橋を一望する位置へ。私が立っている道路橋の影が右手前に写っている。南海らしい海の色が美しい。暫く待つと、客車列車が最徐行で通過して行った。

撮影後マドゥライの町に戻り、翌日はヒンドゥ寺院やキリスト教会を巡って一日を過ごした。夜には同行のF氏と、ホテルの前で営業していたバーに意を決して突撃した(インドは宗教上の理由でアルコールを公に提供する店はごく少ない)。しかし店内に入ってみると期待したような華やかな雰囲気は微塵もなく、客もまばらなバラックのような席に通され、しなびたポテトだけをつまむことになった。やはりインドは一筋縄では行かない国であった、とF氏と笑いながら東京への帰途についたのであった。

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