中国大陸には、未だ観光用ではない「現役の蒸汽」が生きながらえている……、そんな信じられない話を聞いたのは2014年、私が高校二年生の時だった。慌ててインターネットで検索すると、確かにそれらしい情報はちらほらと見つかる。が、それらの情報のうちの多くは、新しくても数年前、古ければ十年以上前のものであり、専門的かつ最新の情報を扱っている日本語のホームページを見つけることはできなかった。それでも調べているうちに、四川省の芭石鉄道は地元住民用でありながら観光客も受け入れており、ガイド付きのツアーを扱っている現地旅行社も存在していることが判った。かくして16歳の私は、中国現役蒸汽という魅惑の世界にのめり込むきっかけを得たのである。

幸運にも、私の通っていた高校には第二外国語の授業があり、祖父が日本統治時代の台湾生まれだったこともあって、私は中国語のクラスを選択していた。当時でちょうど一年半ほど学んでいたことになる。二度の台湾渡航経験もあり、うち一度は一人で一週間かけて台湾の島を一周していた。さらに私を後押ししたのは、その年の夏に経験した二週間の北京大学への語学留学であった。といっても、留学とは名ばかりで、留学中のほとんどの時間は観光や飲食を満喫していたのだが…。

当初、私はガイドを雇って芭石鉄道を訪れることを検討していて、四川省中国青年旅行社の劉さんというガイドの方と連絡を取った。彼は非常に親切でかつ日本語も達者であり、結局私が一人で芭石を訪れると決めた後も、ホテルや交通機関など多方面で私の旅をサポートしてくださった。
ガイド無しの単独行で中国蒸汽の撮影に行くという姿勢は、この一番最初の芭石への旅で確立してからずっと続けることになった。唯一、新疆ウイグル自治区の三道嶺だけは、特殊な撮影条件や治安的な配慮もあり、日本人の撮影家である小竹直人氏と中国人ガイドの王国軍氏の主催するツアーに参加させていただいたが。

四川省の成都へ辿り着いたのは、2014年のクリスマスの日だった。私は17歳になっていた。たまたま母の知人夫妻が成都へ赴任しており、彼らの家に一泊させていただいてから、バスで芭石鉄道のある犍为を目指した。単独で旅をすると言っておきながら、実際には旅の準備段階でも旅先でも常に多くの方々の手助けを受けていた。

とにかく、成都についた翌日、私は路線バスで街はずれの長距離バスターミナルへ行き、そこから高速バスと路線バスを乗り継いで無事に芭石鉄道へと辿り着いた。「蜀の犬は太陽を見て吠える」という諺があるそうだが、私が辿り着いた芭石鉄道躍進駅も小雨が降り霧のかかる天気であり、随分と辺境の地まで来たのだという妙な実感が湧いたものだ。線路伝いに歩いていくうちにいよいよ辺りの人家も減り、まるで廃線跡でも歩いているような気分で、「こんな場所に今でも本当に蒸汽が走っているのだろうか…」と心配になってきた。それでも暫く歩くうちに、ふと霧雨の向こうから蒸汽の息遣いが聞こえて来た。大慌てで泥濘の獣道を駆け上がり、どうにか写真を撮れる場所を見つけてカメラを構えた。果たして、一両だけの小さな客車を牽いた、これまた小さなC2形蒸気機関車が、下り勾配を駆けるチャッチャッチャッという小気味良い音とともにファインダーに飛び込んできた。私を認めた機関士が盛大に吹かしてくれた汽笛の音が、暫く頭の中で反響し続けた。

かくして中国の現役蒸汽(半ば観光化された芭石鉄道が厳密に現役蒸汽であるかという点には賛否があるだろうが…)に魅せられた私は、翌2015年の春に芭石を再訪し、夏には内蒙古の平庄と遼寧省の阜新、冬には新疆ウイグル自治区の三道嶺と、駆け足で中国に残る現役蒸汽を訪問していった。現役蒸汽最後の楽園とまで言われていた中国ではあっても、既に当時、蒸汽が活発に動いているのは芭石と阜新、三道嶺の三箇所のみであり、他の場所は蒸汽が生き残っていたとしてもせいぜい一両か二両であった。中国蒸汽の最後の煌めきに接することができたのは、本当に幸せであった。

阜新もまた、芭石と並んで思い出深い地である。私が初めて訪れたのが2015年の8月の末、蒸汽撮影には適さない真夏であったが、それでも「いつ無くなってしまうかは分からない」との危機感に駆られて訪問した。観光客の多い芭石とは異なり、炭鉱と発電所とを繋ぐ純粋な産業鉄道として地味な仕事に従事する上游型機関車。街中にあるヤードや機務段(機関区)、街はずれの石炭積み込み場、そしてズリ捨て山の上に伸びる線路と、決して美しい景色とは言えないものの変化に富んだ専用線であった。残念なことに、この初訪問からちょうど一年後の2016年8月、阜新も遂に無煙化されてしまった。結果的に私は三度阜新を訪れることができたのだが、もし私が中国蒸汽に関心を持つのが一年遅れていたならば…と考えると、ぞっとしないものである。

三道嶺には建設型機関車が残っていた。阜新や平庄の機関車はみな小振りな上游型であったから、初めて見た時には建設型の迫力にはぶっとんだ。三道嶺は周囲が開けておりロケーションが良く、順光で撮影出来る連続上り勾配もあり、さらには牽引される貨車も阜新よりずっと長編成であったために、撮影が殊更楽しかった。零下10度を下回るウイグルの青空に白く棚引く煙は、それはそれは美しいものであった。
前述の通り、三道嶺は小竹氏と王氏の主催するツアーに参加しての訪問だったので、中国蒸汽撮影家の大先輩の方々と交流する機会を持つことができたのも有意義だった。一日の撮影を終えた後の宴会の席では、その日の撮影の成果から今は無き南岔や集通の蒸汽の話、そして中国の文化な話に至るまで、話題が尽きることはなかった。

一度目の三道嶺の時、私は18歳であった。撮影ツアーの中では最年少であり、中国蒸汽を撮る人たちの中でも恐らく最年少の類に属していたと思う。「さて、これで私は『世界で最も若い中国現役蒸汽の撮影者』になるのかな」などと奢ったことを考えていたのだが、後に実に私より三つも年下で芭石や三道嶺を訪れた「撮影者」が現れたので参ってしまった。彼は中国蒸汽や満鉄に関する歴史的な知識にも精通しており、「現地に行って撮影できればそれでいい」くらいの気持ちでいる私にしてみれば感心するばかりである。

インターネットやSNSの普及により、昔に比べれば中国蒸汽の撮影の難易度は格段に下がっているのだろう。飛行機や切符はネット予約ができるし、グーグルマップを使えば衛星写真すら手に入る。そして何よりも、実際に現地を訪れた先輩方から直接の指南を受けられるのが有難かった。
このホームページも、中国蒸汽に関する最新の情報を共有しようとして開設したものだった。SNSで発信した情報はすぐに埋もれてしまうので、継続的に情報を発信できるホームページが必要だ……と考えたのもあるが、実を言えばこれもきっかけは大先輩の方々が開設していたホームページに憧れ、真似事まがいのことをしてみた、といった部分が大きい。多くの先輩方から情報を頂いたのだから、私もこれから訪れる人のための道標を作っておかなければ、といった義務感のようなものも少なからずあった。

私が初めて中国蒸汽と接してから二年半。中国の現役蒸汽を取り巻く状況は刻一刻と変化してきた。芭石鉄道の観光化がますます進む一方で、阜新では煙が消え、三道嶺も無煙化を目前に控えている。私からみれば早すぎる幕引きではあるが、それでも、よくぞ私が訪れた日まで残っていてくれたものである。まずはこの幸運に感謝したいと思う。
私は私で、いよいよ十代の終わりが見えてきた。高校生活の後半と大学生活の初め、体力と気力に溢れたこの時期に中国現役蒸汽という魅力的な被写体に巡り会い、己の青春を賭して向き合えたことは本当に幸せだった。周囲の環境も、まるで仕向けられたかのように私を中国へと導いてくれた。そして何より、親をはじめとした多くの方々が私を応援してくれた。
今でも写真を見返すと、あの蒸汽たちの息遣いが聞こえてくるようである。瞼を閉じれば、あの紅い動輪の躍動が甦ってくる。石炭と機械油の香り、そして黒鉄の身体に宿る温もり……。我が青春の中国蒸汽よ、永遠なれ!

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